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* 熱・化学15:エネルギー保存則(1842年:マイヤー)

Q40:医師マイヤーは、船医としてジャワを航海したとき、気温が暑くなるにつれ船員の静脈血が赤味を増すことに気づいた。そしてこの発見を基に「エネルギー保存則」を推論するに至るのだが、いったいどのように推論を進めたのだろう?(ヒント;赤い血は酸素が多い)

 おそらくこの様な流れでマイヤー(Julius Robert von Mayer、独、1814~1878年)はエネルギー保存の考えに至ったのだろう、「体温の維持と血液中の酸素消費量の合計が一定」という所までは、推論は比較的素直であるが「総エネルギーの保存」まで飛躍すると、その考察にあいまいさが残る。事実、当時の学会からもこのあいまいさを指摘され論文は掲載されなかった。そこでマイヤーは急いで論文を「科学的」に修正、熱と力学的仕事の換算値を計算によって示すことで(ジュール(James Prescott Joule、英、1818~1889年)の実験のなんと5年前!:熱・化学16話参照)、1842年「無生物界の力について」という論文をついに世に著す。ここで言う「力」とは「エネルギー」のことで、当時まだエネルギーという言葉(概念)はなかったのである。そしてこの論文で「エネルギー(力)は一度存在すれば消滅することなく、形を変えるだけ」とその保存性を主張することも忘れなかった。

マイヤーは、当時のドイツ・ロマン主義的自然観「自然界の諸作用は宇宙の根源的な力による」という考えに強く傾倒しており、「保存」の発想はむしろ自然であった。それまでの自然観である分析的・要素論的な「機械論的自然観」に対し統合的・全体論的な「有機論(生物論)的自然観」の視点による発想の芽生えともいえる。前者の考え方は、力学や電気学及びそれらの技術応用に強い指導力を発揮し物質文明の発展を築いた。一方後者の考え方は後に「統計力学」など、部分に分け分析する方向とは逆の視点である統合的な考え方を生み出し、20世紀の物性論(エレクトロニクス)や生物論に影響を与えることになる。その最初の成果が「エネルギー保存」という統合的な発想だったと言える。

 マイヤーは、ドイツ、ビュルテンブルグに薬剤師の子供として生まれ、大学で医学を学び24歳で医学博士号を取得した。その後パリを旅行したり、オランダ商船に乗り医師として1年間ほど東インド諸島を回ったりした。エネルギー保存則の発想はこの時に生まれている。帰国後生地で医師として生活を送ったが、1848年の三月革命で革命派に捕えられたり、1850年に極度の躁鬱症がもとで裸のまま2階の窓から飛び降り自殺を図るなど、天才に見られる精神異常の行動が頻発するようになった。マイヤーの異常行動は「体形と病理」の心理学者クレッチマー(Ernst Kretschmer、独、1888~1964年)によって分析され「天才の心理学」に記述されている。ところでマイヤーの発想はある意味でギリシア時代の哲学者の論理に戻ったようなところがあり、科学の視点から見ると素人的発想に近い。このため論文掲載を何度も拒否され、出版社と論争を起こし、そのたびに精神的ダメージを受け、自殺のきっかけを自ら作っていくことになった。

 エネルギー保存則はマイヤーによる提言から5年ほど遅れ、ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz、独、1821~1894年)によっても独立に提言され(1847年)、その内容が数学的に詳しく分析された。ヘルムホルツの業績は、まず力学的なエネルギーを「位置のエネルギー」と「運動のエネルギー」に分解して考え、その総和が一定であることを示した点にある。この定式化はその後エネルギー考察に幅広く利用されることになった。さらに永久運動が不可能であることも示した(道具・力学10話参)。そしてジュールの熱と力学的運動の等価性を示した実験(熱・化学16話参)結果を基に、力学の範囲のみならず、熱、電気、化学に関するエネルギーの総和が(外部からエネルギーや物質の出入りの無い閉じた系においては)一定であり、エネルギーの形態はその中で自在に変化できることを包括的に論じ、現在のエネルギー保存則の基盤を完成させたのである。この革新的な研究成果をヘルムホルツはなんと26歳のときに発表したのだから驚く。(こういう話は、自分の平凡さを確信させ、酒でも飲んで寝てしまいたくなる)

 エネルギー保存則はこのように、マイヤー、ジュール、ヘルムホルツによりほぼ同時代、1840~1850年に提言・確立されていったのだが、実はその萌芽はもっと古くニュートンの時代までさかのぼることができる。数学者ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、独、1646~1716年)は質量と速度の2乗の積(mv^2)を「活力」と名付けこれが保存されるとした(1686年)。しかし、この重要な提言は当時、質量と速度の積(mv:運動量)が保存されるとしていたデカルト&ニュートン主義者との対立を深め、認められなかった。ここに、フランスに生まれ数奇な運命をたどる美人数学者エミリー・デュ・シャトレ(Gabrielle Émilie Le Tonnelier de Breteuil, marquise du Châtelet、仏、1706~1749年)が現れるのである。彼女はニュートンのプリンキピアをフランス語に完訳し、その中に多くの注釈を加え、ライプニッツ同様にmv^2が運動物体のエネルギーを表し、それが保存されることを示したのだ(1749年)。尚、彼女は語学、数学、科学、音楽に天才性を発揮し、女優でもあったという美貌の持ち主であった(なんという人か、会ってみたい)。19歳で公爵夫人となり3子を儲けた後、数々の愛人関係を持つ。ヴォルテール("Voltaire" François-Marie Arouet、仏、1694~1778年)も4番目の愛人でありお互いの才能を尊敬しあいながら恋愛関係を育んだ。しかし5番目の愛人との間に出来た出産による体調不調により42歳で亡くなってしまう。そして、その後マイヤーの出現まであと100年を待つことになるのである。

宿題40:ヴォルテールはシャトレの死後「彼女は偉大な人物だった。唯一の欠点は○○だ」と言ったが、果たして○○とは?

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