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* 電子・IT・新技術6:トランジスタ(1948年:ショックレーら)

Q80: H君は雑誌の付録に付いていた「ゲルマラジオ」を組み立て、イヤホンからかすかにラジオ放送が聞こえた時、体中が震えるほど感激した。このゲルマラジオ、電源を使っていないのだが、いったいどうやって鳴っているのだろう?

 懐かしい、「鉱石(ゲルマ)ラジオ」の感動体験だが、このラジオのキー部品である点接触・鉱石検波器がトランジスタの先祖である。独の物理学者でブラウン管の発明で有名なブラウン(Karl Ferdinand Braun、独、1850~1918年)(電気・磁気19話参)は1874年、金属硫化物に金属針を接触させると交流を直流に整流させる作用があることを発見し、1898年、鉱石検波器を発明するのである。この頃、各国で「針立て鉱石」による整流・検波作用が相次いで発見されており、無線通信(電気・磁気17話参)に利用されるようになった。これが半導体材料表面に針を立て、電流現象を調べることの始まりとなる。さらにこの鉱石検波器は、当時の戦闘機技術に必要な電波探知機の開発と言う、国家防衛の重要テーマとして発展して行ったのである。

 時が移り1935年、米ベル電話研究所では、当時増幅作用のみつかった真空管(電気・磁気13話参)の研究を盛んに行っていた。その研究部長がマービン・ケリー(Mervin Joe Kelly、米、1895~1971年) 。彼は真空管研究を指導しながら、その将来性に疑問を持っていた。10年から20年先の社会を考えると、電話はこの広いアメリカのどこから、誰もが通話できるようにならなくてはいけない。それにはこんなに効率も信頼性も悪い素子では役に立たないだろう。「将来の電話社会を実現できる、真空管とは全く違う増幅器」が必要だ、と強いビジョンを持っていたのである。実はこれはすごいことである、通常、自分の専門領域にこだわりそこから抜けられない人が多いのだが、彼は違っていた。

 ケリーはこのビジョンを実現するため、1936年、大学(MIT)を訪問し、俊英をスカウトする。大学院生のショックレー(William Bradford Shockley Jr.、米、1910~1989年)であった。ケリーはショックレーに自分のビジョンを語り「じっくり待つ」と時間と研究環境を与える。ウィリアム・ショックレーは1910年、やはりMIT出身で鉱山技師の父とスタンフォード大出身で女性採掘師のインテリ一家に生まれた。彼が生まれた時父は既に50代、母は24歳も年下だった。彼は1932年Cal.Tec.を卒業後、1936年MITでPhDを取る。量子力学の固体物理への適用で著名なスレーター(John Clarke Slater、米、1900~1976年)指導の下「NaClのバンド構造」が博士論文だった。ここでケリーにスカウトされ、Bell研へ。ケリーのビジョンに感銘を受け、固体増幅素子の発明に強い意欲を持ったのである。

 ところで、この斬新と思われる領域にも先人が居た。約10年ほど前の1925年、リリエンフェルト( Julius Edgar Lilienfeld、ポーランド⇒米、1882~1963年)は、半導体固体中に電子を流しそれに垂直に電界を駆け電子の流れを制御する固体素子、後の電界効果トランジスタ(FET)、の特許を出していたのである。さらに、独のヘイル(Oskar Heil、独、1908~1994年) も1935年、同様のFET特許を英国で出願している。これらが実際に試作・開発されることはなかったが、後の1990年にリリエンフェルトの構造が増幅作用を生じることが確認されている。又ベル研のショックレーらもリリエンフェルト型FETを試作していたことが記録に残っている。(この為、ベルのトランジスタ特許はかなり制限を受けることになった)それにしてもショックレーらのトランジスタ発明の20年も前に、既に同様の発想をした人が居たということだ。

 ところで、1936年からベル研で研究を始めたショックレーは、リリエンフェルト構造に似た電界効果型固体増幅素子を作ろうと実験を重ねたが、期待された信号の増幅は得られず、時代は第2次世界大戦に突入する。この時期(1942年)ベル研を一時離れ、レーダー技術の改良など軍の研究に参加。ここで固体ダイオードの特性改善に関わったことが、半導体の知見を増やすのに役立った。1945年終戦を迎え、ベル研に戻りトランジスタ研究を再開するが、軍研究で知り合った才人バーディーン(John Bardeen、米、1908~1991年)をスカウトし合流させる。これが成功への流れを作った。何度やっても失敗を重ねる実験を冷静に分析したバーディーンは「これは電子が流れる半導体内部の問題ではなく結晶表面に関する理解が不足している為だ」と推察。基礎に戻り半導体表面の電子の性質を調べる研究をブラッテン(Walter Houser Brattain、米、1902~1987年)と始めた。

 バーディーンはショックレーの素子構造を一度棚上げにして、表面の電子準位を針電極で突きながら調べる実験をブラッテンと進める。1946年には、表面の電子状態もわかり、それまでの「失敗」の原因が分かってきた。さらに試行錯誤を繰り返しながら「針立て実験」はデバイス構造へと予測しない進化をしてゆく。ある日、資料を水に落として「失敗した」と思ったら、その資料から増幅の兆候が現れた。なら水がいいのかと思い水をたらして試すがそれはダメ。それではと水の代わりに電解液で試したり、酸化膜をつけたり、付けたはずの酸化膜が剥がれて「失敗した」と思うと旨くいったり。全く思いどおりにならない中で、ついに1947年も末の頃、n型ゲルマニウム結晶の裏面に電極を付け、表面側に1mm以内に接近させた2本のタングステン針を接触させて、片方に微弱な電気信号を入れた所、大きな電圧を掛けたもう一方の針から増幅された電気信号を得ることに成功する。トランジスタの原点である「点接触型トランジスタ」が誕生した瞬間だった、すぐにバーディーンとブラッテンの特許が申請される。

 ところで、この研究のリーダであるショックレーは2人の画期的な成果を知り、さらに特許に自分の名が無いことに「異常なフラストレーション」を感じた。そして創造への執念を燃え上がらせたのである。「この点接触型では不安定で実用素子にはならないはずだ」、「増幅作用の本質が何か分かっていないではないか」この2点の解決に自分の全能力を集中させた。まさに夜も寝ず(奥さんの談話)、理論分析と新構造の提案に「一人で」取り組んだのである。果たして1ヶ月後「接合型トランジスタ」を発明する。点接触型に比べ飛躍的に優れたその特性が実験で確認され、実用性のある素子として「ショックレー単独」の特許となった。

 ショックレーは天才ではあったが、自分の主義主張を押し通しすぎる偏執気質ため、指導者として多くの人から嫌われた。ベル時代も部下のバーディーンやブラッテンから嫌われ、結局離反される。又、その後作った「ショックレー半導体研究所」でも、8人の優秀な部下たちから集団脱走され、別会社(フェアチャイルド社)を起こされた。さらに晩年は優生学に懲り人種差別的発言を繰り返したため、その社会的評価を落とすことになる。1956年にトランジスタの発明でショクレー、バーディン、ブラッテンの3名がノーベル賞を得たが、この受賞についても他の2名の受賞を不愉快に思っていたようだ。

 バーディーンは1951年にショックレーのいるBell研究所を辞めイリノイ大に移り、若い時から興味を持っていた超伝導現象の理論解明の研究に取り掛かる。トランジスタでのノーベル賞受賞1年後の1957年、画期的「BCS」理論(Bardeen Cooper Schrieffer理論;3人の発見者の頭文字)を発表。半世紀にわたりなぞだった超伝導のメカニズムを後進たちと協力しながら解明し、1972年になんと2度目のノーベル賞に輝いた。バーディーンは極めて温厚な性格であり、天才でありながら誠実で、おごり高ぶった所が全くなかった。私も生前お会いすることができたが、とても優しいおじいちゃんで、論文に気さくにサインをしていただけた事を今も覚えている。

 ブラッテンは、3人の中では一番年配であり、地味な職人気質の研究者である。ビートルズでたとえるとリンゴ・スターのようなタイプだろう。温和なところはバーディーンに似ているが、さらにチームに和みを与える人である。この人が居たからこそ、強烈な2人の天才に挟まれながら、実験をコツコツ繰り返し、失敗をしても楽天的に捉え、見事な創造を成し遂げたのだと思う。このあたりもビートルズと似ているかもしれない。(トランジスタ技術、2015年5月号に掲載)

宿題80:ショックレーが当初考えていた電界効果型トランジスターは後のFETの原型と言えるものだった。それなのになぜうまく動作しなかったのだろう?

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